« 戦い済んで | トップページ | 久しぶりのレトルトカレー »

2006.06.25

川崎先生のパーティ

この4月に川崎富作先生が日本小児科学会賞を受賞されそのお祝いの会が東京會舘で開かれた。小児科学会賞というのは今年新設され第一回の受賞。これまで数々の賞を受賞されて、その度にお祝いをしてきているのだが、これでいったい何度目だろうか。ご本人もよくわからないそうだ。

Kawasaki小児科学会関係や川崎病の研究関係、日赤医療センター関係者など、かなりの人数の方が集まった。「川崎病は、いま」という著者サイン入りの新刊書を受付でいただく。最近日赤医療センターの小児科にはご無沙汰なので久しぶりに元同僚たちと歓談。先日の新聞に掲載された「1400グラムの未熟児の動脈スイッチ手術成功」の話を聞く。日赤医療センターでは私がいた頃に「完全大血管転位」の動脈スイッチ手術に初めて成功、その後も数は多くないものの着実な成績を残してきた。1例ごとに大騒ぎだったのだが、今は1400グラムの未熟児でも助かることに感慨を覚える。この間に心臓外科の執刀医は2代かわった。小児科医は私が開業して抜けたがT先生、Y先生は頑張っている。みなあれから10歳年をとったことになる。高度な手術は経験の多い施設に集中させるという今の流れからすると生き残りをかけての戦い。都内最大の新生児未熟児センターをかかえる施設として生き残る方に入ってほしいと思うが、病院の姿勢はそうでもないらしい。今度の病院建て替えにともなって小児科、産婦人科関係が縮小されるという。これまで産婦人科と小児科が大きすぎたというのだが、それが看板の病院ではなかったのか。私が赴任した1984年、小児関係の病床は4階西・東あわせて90床、新生児・未熟児科がNICUを含めて76床あった。小児の病床が100以上あれば小児病院と名乗っていいそうなので、立派な小児医療センターだった。川崎病の流行年だった82年と85年には90床あった小児のベッドに急性期の川崎病の患者があふれた。
85年を境に川崎病の大きなブレイクはなくなる。それとともにベッドに空きが目立つようになり、90年に川崎先生が定年退職される頃から小児病棟は縮小されていく。最初は小児外科系のベッドの一部を成人用に転用という形で始まった。小児外科系病棟の45床が全部成人に取って代わられるまでにそう時間はかからなかった。川崎先生は、自分はちょうどいい時期に辞めた、後任は大変だろうと言われていた。バブルの真っ最中で都心の地価は暴騰し、ドーナツ化現象で周辺の小児人口は激減した。それでも小児科が何とか持ちこたえていたのは川崎病と新生児科に集まる重症児のおかげだった。
もう何度目かわからないという受賞祝賀パーティでは、川崎病の原因究明をという話がいつものように出る。あれだけたくさんの患者さんを見ていながら何の手がかりもつかめなかったというのも情けない話。思えば、あのころの日赤医療センターの小児病棟は「宝の山」だったのに。

|

« 戦い済んで | トップページ | 久しぶりのレトルトカレー »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/4860/10673715

この記事へのトラックバック一覧です: 川崎先生のパーティ:

« 戦い済んで | トップページ | 久しぶりのレトルトカレー »